2026年の1月から始まったアメリカのベネズエラの攻撃について、非常にインパクトのある出来事でした。
今回は、そもそもベネズエラについてどのような国なのかを探っていきたいと思います。
基本情報
- 正式国名:ベネズエラ・ボリバル共和国
- 首都:カラカス
- 位置:南アメリカ北部(カリブ海に面する)
- 人口:約2,800万人
- 公用語:スペイン語
- 通貨:ボリバル(近年は米ドル併用が進行)
歴史の概要
ベネズエラの歴史は、
「植民地 → 独立 → 石油国家の成功 → 石油依存による崩壊」が現代までの大きな流れになっています。
以下に詳しくみていきましょう。
植民地化以前:どんな社会だったのか(15世紀以前)
主な民族は、カリブ系とアラワク系といった、小規模部族社会であり、キャッサバやトウモロコシを中心とした農耕社会を形成しておりました。一方で、中央集権国家ではないため、外部勢力に対抗する軍事や政治基盤が弱かったことが推測されます。
ヨーロッパ側の動機:なぜ来たのか
15世紀末のスペインの事情
レコンキスタ完了(1492年)完了」026年の1月から始まったアメリカのベネゼエラの軍事行動について、非常にインパクトのある出来事でした。
今回は、そもそもベネゼエラについてどのような国なのかを探っていきたいと思います。
基本情報
正式国名:ベネズエラ・ボリバル共和国
首都:カラカス
位置:南アメリカ北部(カリブ海に面する)
人口:約2,800万人
公用語:スペイン語
通貨:ボリバル(近年は米ドル併用が進行)
歴史の概要
ベネズエラの歴史は、
「植民地 → 独立 → 石油国家の成功 → 石油依存による崩壊」が現代までの大きな流れになっています。
以下に詳しくみていきましょう。
植民地化以前:どんな社会だったのか(15世紀以前)
主な民族は、カリブ系とアラワク系といった、小規模部族社会であり、キャッサバやトウモロコシを中心とした農耕社会を形成しておりました。
一方で、中央集権国家ではないため、外部勢力に対抗する軍事や政治基盤が弱かったことが推測されます。
ヨーロッパ側の動機:なぜ来たのか
15世紀末のスペインの事情
結論から言うと、①レコンキスタによる深刻な資金不足、②スペインの隣国であるポルトガルと対抗するため、③キリスト教の布教のため、と言われております。
①レコンキスタによる深刻な資金不足
1492年に700年に渡るイスラム圏との闘いが終結しました。
※レコンキスタとは、8世紀から15世紀末にかけて、イベリア半島で行われたキリスト教勢力によるイスラーム勢力(アル=アンダルス)からの領土回復運動です。
しかし、このレコンキスタによって、主に資金源の慢性的な財政確保が非常に問題となりました。
特に最後の10年間で、ナスル朝グラナダ王国のグラナダ戦争によってカスティーリャ王国(スペインの前身)の歳入近くまで消費してしまいました。
このことから、3つのことがカスティーリャ王国で行われ、起こりました。
(1)王室財産の切り売り
王領地の担保化、収税権の前借り、都市・貴族からの強制借款などが行われ、将来的な減らす形で戦費を調達をしていました。
(2) 銀貨不足(貨幣収縮)
戦費で銀が国外・軍へ流出し、市場の銀貨が枯渇、商業停滞・徴税困難が起こりました。
(3) 常備軍化による固定費化
一時動員 から常備軍へ、戦後も軍事費が下がらない状態になりました。それによってレコンキスタ終了後も財政は回復が起こりづらい状況が生まれてしまいました。
当時、ヨーロッパでは銀が経済流通を支える貨幣として使用されておりました。
〇なぜ、銀不足が起こったのか
→軍隊は「現金払い」でしか維持できなかった
15世紀は封建制から常備軍制への移行期でした。
騎士の無償奉仕 には限界があり、お金を払って雇う傭兵が主流となっていました。その時の支払いが銀によって現物支払いが原則でした。
特にスペインや神聖ローマ帝国を率いたハプスブルク家の軍隊は、多国籍傭兵が中心でした。
したがって、銀が止まることによる反乱・離脱・敗北がカスティーリャ王国としては危惧されていました。
②スペインの隣国であるポルトガルと対抗するため
ポルトガルは、隣国に囲まれて農地拡張や陸上交易が困難な国家でした。
したがって、海洋航路で交易が発展していきました。
また、ポルトガルはスペインに比べて、地理の関係からレコンキスタが早く収束したことで、より軍事にお金を注ぐことなく貿易に注力することができました。
そうしたことから、一歩先に進んでいたポルトガルに対抗することで大西洋利権を取るために必要と考えられていました。
③キリスト教の布教のため
ここで決定的なのが教皇の承認です。教皇は「新たに発見された土地での布教権」をカスティーリャに付与した一方で、「現地住民をキリスト教化する義務」が課されました
この枠組みの中で、ベネズエラ沿岸やカリブ海世界にも修道会・宣教師が派遣されることになりました。
ベネズエラとスペインの接触(1498年)
それは、コロンブス第3回航海にて、クリストファー・コロンブスが1498年、南米大陸に初めて足を踏み入れたヨーロッパ人として現在のベネズエラ沿岸(オリノコ川河口付近)に足を踏み入れました。
ただし、この時点では植民地化ではなく、「富の探索」と「偵察」が主目的だったとされています。
「ベネズエラ」という名前の由来
沿岸部の水上住居を見た探検家が 「小さなベネツィア(Veneziola)」と呼び、これがこれが Venezuela の語源とされています。
本格的植民地化が遅れた理由
→A.金銀が出なかった
メキシコやペルーと異なり、大規模な金銀鉱山が存在しなかったため、初期はスペインから関心を持たれていませんでした。
植民地化が進んだ決定的理由
それでは、なぜ植民地化が進んでいたのでしょうか。それは以下の2つの理由があります。
① 奴隷労働に適したプランテーション
カカオ栽培が極めて好条件でした。
特に、17-18世紀ではヨーロッパでチョコレート需要が急増化することで沿岸部を中心に大農園が成立されました。
②エンコミエンダ制の導入
スペイン王権が認可し、植民者が先住民の労働を「保護と引き換え」に徴用をつのり、実態としては、強制労働をさせて、疫病や酷使による人口が激減していきました。
これが独立の原因の一つともいわれております。
「ベネズエラ先住民人口は16世紀中に激減した」(Cambridge History of Latin America)
植民地社会の身分構造
また、ベネズエラ内での階層があり、スペイン本国生まれ>白人>中間クリオーリョ(現地生まれ白人)>下層混血・先住民・黒人奴隷
といった、格差構造があり、これもまた独立運動の火種になったといわれています。
これらの植民地社会が長く続いたからこそ、中央集権が育たず、格差が深く残り後の国家運営にまで影を落とすことになりました。
独立戦争と建国(1810–1830)
スペインでのナポレオン戦争

引き金はスペインでのナポレオン戦争(1808年)でした。
1808年に、ナポレオンがスペイン侵攻し国王フェルナンド7世退位されました。これによるスペイン本国の正統政府崩壊が起こりました。
このことから、植民地側の論理として「正統な王がいない以上、主権は現地に戻る」として、
1810年、カラカスで自治政府が成立しました。
そうして興ったのが第一次共和国でした。
第一次共和国(1811–1812)と崩壊
1811年、ベネズエラは独立宣言し、共和制を採用されました。
しかし、地震(1812年)や主導者がクリオーリョ(現地生まれ白人)エリートであったこと、奴隷制・身分制を維持したまま独立したことから、
王党派の反対や、奴隷・下層民が王党派側についたことから、共和国は崩壊しました。
シモン・ボリバルの登場
ここで中心人物が現れます。シモン・ボリバルという、彼もまたカラカス生まれのクリオーリョです。啓蒙思想に影響し生涯を独立に捧げることになった人物です。
彼は次第に「白人だけの独立では勝てない」と理解しました。
戦争の根本的な転換(1813–1819)
ボリバルは戦略を変えます。
つまり、
- 奴隷解放の約束
- 有色人・混血民の動員
- 王党派に対する徹底抗戦
これにより戦争は、
白人による自治のための戦争から、社会階層を変化させるための戦争になりました。
決定的勝利:カラボボの戦い(1821年)
独立の軍事的決着です。
カラボボの戦いにより、独立軍が王党派主力を撃破しカラカス(現在のベネズエラの首都)での解放がおこりスペイン支配は事実上崩壊されました。(完全撤退は1823年)
「大コロンビア」という壮大な構想
- 1821年、ベネズエラ、コロンビア、エクアドルを統合したグラン・コロンビアという国家が成立しました。
ボリバルの理想としては、強力な中央集権、分裂防止、欧米列強への対抗するためでした。
しかし、現実には政治文化の違いから、地域対立、経済利害の衝突が起こり、1830年に解体されました。
慢性的政治不安(19世紀)
独立戦争によって、各地域に、私兵を率いる指揮官、馬と武器に慣れた農牧民(リャネロ)、地域ごとの軍事ネットワーク
を残しました。
彼らは戦後も武装解除されませんでした。
こうしたことによって、「勝った将軍が政治を握る」ようになりました。
また、軍人・地主による権力闘争(カウディーリョ体制)が引き金となり、内戦・クーデターが常態化しました。
経済
・加工業ほぼゼロ
・国内市場が極小
・都市経済が未発達
の状態で続いておりました。
ベネズエラの特徴的な生産品としては、カカオ(最大)、コーヒー(後半に成長)、皮革・牛(リャノ地方)でした。
参考文献:「独立後100年間、安定した国家形成に失敗した典型例」
— Latin American Studies Review
石油発見と急成長(1914–1970年代)
そうした中で、ベネズエラに転機が訪れました。
1914年にマラカイボ湖で商業油田発見されました。
このことを契機に、1920年代には世界最大級の産油国となり、GDP成長率南米トップクラスとなりました。
特に、1950年代はGDPが欧州並みともされていました。
参考文献:
- Maddison Project Database
- World Bank Historical GDP
この時期に「石油=国家成功」という強烈な成功体験が形成されました。
民主化と石油依存の固定化(1958–1990年代)
1958年には、マルコス・ペレス・ヒメネスによる軍事独裁が、汚職の蔓延、秘密警察による弾圧、軍内部の不満増大が出てきたことから、
労働者ストや学生運動、反政府デモ、軍の離反が同時発生し、独裁は崩壊しました。
1958年のプント・フィホ体制では、石油収入を政党や労組、中産階級
に分配することで安定しました。
これらは石油が高単価で取引されているまでは成立できていました。
参考文献:
- World Bank
- IMF Country Reports
1980年代:石油価格の長期低迷
1980年代に入ると、国際原油価格が下落したことで、国家歳入が激減し財政赤字・債務拡大しました。
このことから、汚職の可視化されるまで増加し、政党不信の急拡大、石油に発展した中産階級の没落が起こりました。
政党の「カルテル化」と代表性の喪失
主要政党は、選挙では競争、統治では談合、人事・利権を独占
という閉鎖的エリート政治へ。
これにより、貧困層・若者・新興都市民は制度の確立に参加できないようになっていきました。
決定的断絶:1989年「カラカソ」

1989年、緊縮政策(補助金削減)をきっかけに首都圏で大規模暴動が勃発しました。
「カラカソ(Caracazo)」
数百〜数千人規模の死者
軍が市民を鎮圧
国家が国民に銃を向けた象徴的事件となりました。
この事件により、
① 「民主主義への信頼」が崩れた
形式的な民主主義は行われていたが、「困った時に国は守ってくれない」
という認識が広がりました。
② 反エリート・反新自由主義の土壌形成
この事件は後に、既存政党政治への不信、軍内部の反体制思想を強めることになりました。
この事件は、民主主義の道徳的正統性が崩壊したともされます。
⑤ 軍の再政治化(1992年)
体制への不満は軍にも拡大。
- 汚職政治への嫌悪
- 国民鎮圧への反発
1992年、クーデター未遂が発生。その指導者の一人が後に大統領となる
ウゴ・チャベス。
軍が「救済者」として再登場されることになりました。
1998年:有権者が体制を終わらせた
最終的な崩壊は選挙でした。
1992年、チャベスはクーデター未遂で失敗し投獄されます。
しかし彼はテレビ演説で
「por ahora(今回はここまでだ)」
と語り、責任を引き受ける姿を見せました。
それは、
- 既存政党への全面的不信
- 「反体制」への期待
を思わせ、のちの1998年大統領選でチャベスが圧勝することになりました。
つまり、民主主義はクーデターではなく、投票で否定されたのです。
チャベス政権(1999–2013)
石油価格高騰期(2000年代)に貧困率は一時的に改善しました。
同時に、国営石油会社の政治化することで、民間投資減少となりました。
このことは、短期的社会改善と、長期的制度劣化が同時進行(IMF評価)したとされています。
理由としては、政治化することで議会・財務省・監査を通さずに金が動くために、石油収入を“即時分配”に転用できました。
つまり、貧困率の急低下、医療・教育への即効的アクセス、政権支持の急上昇につながり、
短期的には「目に見える成果」が出ました。
一方で、経営判断が忠誠基準になったことで、専門家の排除や大量解雇(2002–03年)がなされ、技術・安全・投資能力が急落。
その結果として、「石油が止まれば国家も止まる」構造が完成されてしまいました。
このことが、現在の2026年1月3日に起こったアメリカのマドゥロ政権に対する事件とつながると考えられます。
マドゥロ政権(2013–現在)

実は、マドゥロの継承を決めたのは「国民」ではなく「体制中枢」だった
形式上は選挙ですが、実質的な後継決定は、大統領、与党、軍、国営石油・官僚ネットワーク
というチャベス体制の中枢で行われました。
この体制の中心人物がウゴ・チャベスだったのです。
彼は死の直前、明確に
「次はマドゥロを支持せよ」
と国民に呼びかけました。
これが“遺言的指名”であり、体制内では絶対的でした。
また、彼が選ばれたであろう理由としては、
軍人ではなかった
マドゥロは、文民出身であり、元バス運転手で組織運動出身でした。
これが軍にとって「脅威にならない」と判断されたと考えられます。
もし強力な軍人が後継になると、
- 軍内部で権力争い
- クーデター誘発
そのリスクを避けられる存在でした。
チャベスへの個人的忠誠が突出
マドゥロは、独自派閥を持たないことや政策独自色が弱いことから、
従順な管理者 として選出をされたのではないかと考えられます。
軍・党・石油の利害を脅かさなかった
マドゥロは、与党 ・PSUV・軍幹部・PDVSA 利権のどれにも
「再編」や「粛清」を示唆されませんでした。
これらは既得権を守る“安全な選択”として、マドゥロが選ばれました。
マドゥロ政権の崩壊
崩壊の直接要因①:石油価格暴落(2014)
2014年以降、原油価格が急落し国家歳入の9割近くを失う
しかし
経済構造はすでに石油100%依存し、為替・価格統制が行われ、
民間産業壊滅している状況でした。
石油に完全に依存する国家構造であったため、「耐える余地」がありませんでした。
崩壊の直接要因②:PDVSAの機能停止
PDVSAは、
・政治忠誠で人事決定
・技術者流出
・投資枯渇
・保守・安全無視
となっていたことから、結果として、
- 原油生産量は長期的に激減
- 石油で危機を救うことが不可能になり
「石油国家なのに石油が出ない」状態となっていました。
崩壊の直接要因③:制度の完全停止
統治の変質
- 選挙の形骸化
- 司法・選管・議会の掌握
- 野党議会(2015)を無力化
2017年には、制憲議会設置され、実質的な権威主義体制へ移行されました。
これが正統性を制度でなく「力」で維持となっている証拠になっております。
経済崩壊の具体例
・ハイパーインフレ
通貨価値が崩壊し給与は数日で紙屑に。
現金が消滅することになりました。
・生活の破壊
食料・医薬品不足、電力・水道の常態的停止し、当然のように治安が悪化しました。
これにより国家が生活を安全に担保できなくなってきておりました。
⑥ 社会的帰結:史上最大級の人口流出
- 600万人以上が国外流出
- 中南米全域に難民化しておりました。
一般的に国家崩壊の最大の証拠は「人が逃げること」とされ、国家崩壊の象徴的な出来事が立て続けに起こってきておりました。
なぜ軍は離反しなかったのか
鍵は軍の利害統合です。
- 軍幹部に
- 食料配給
- 国営企業
- 金融・輸入権益
を付与することで軍=体制の共犯者となっていました。
そのため、民衆不満や国際圧力があっても、政権は倒れない構造になってしまっておりました。
⑧ 国際環境と制裁
米国・EUによる制裁や資金・取引制限がおこなわれるようになりました。
ただし、制裁は崩壊の原因ではなく加速要因であり、崩壊の起点は国内政策
⑨ 現在(2020年代)の実態
- 経済は一部ドル化で「低位安定」
- 格差拡大
- 国家サービスは回復せず
- 政治的自由は限定的
「国家は生きているが、社会は壊れたまま」
という状況でした。
終わりに
ベネズエラの現状を理解するためには、マドゥロ政権だけを見るだけでは不十分です。
植民地時代に生まれた格差構造、独立後に繰り返された政治不安、そして石油によって一時的な繁栄を手にした石油国家としての成功体験が、長い時間をかけて現在の危機につながってきました。
石油はベネズエラ経済を急成長させましたが、その一方で政治制度や産業の多様化を弱め、国家を石油依存に固定してしまいました。
経済が好調な間は問題が見えにくく、原油価格の下落とともにその脆さが一気に表面化したのです。現在のベネズエラ崩壊は、特定の政権や人物だけの失敗ではなく、歴史的に積み重なった構造の結果だと言えるでしょう。
歴史を知ることで、私たちはベネズエラのニュースをより深く理解できるだけでなく、資源と政治が国家に与える影響について考える視点を得ることができます。
