はじめに:なぜイランは「屈しない国家」なのか
――数千年の歴史から読み解くイランという国家の正体――
国際ニュースを見ていると、イランという国はしばしば
「強硬」「宗教国家」「制裁対象」「対話が難しい国」といった言葉で語られます。核問題、代理戦争、制裁、反米姿勢――確かに現在のイランは、世界秩序の中で特異な存在に見えるかもしれません。
しかし、今のイランだけを見て評価するのは正確とは言えません。
イランは近代になって誕生した国ではなく、何千年ものあいだ国家として在し続けてきた、非常に長い歴史をもつ文明国家なのです。
本記事では、イランの歴史を
古代帝国 → イスラム化 → 宗派国家化 → 列強干渉 → 革命国家 → 制裁国家
という一本の因果の流れとして整理し、「なぜ現在のイランはこのような国家になったのか」を、歴史を説明していきます。
基本情報
- 正式国名:イラン・イスラム共和国
- 首都:テヘラン
- 位置:西アジア(中東、ペルシャ湾とカスピ海の間)
- 人口:約8,800万人
- 公用語:ペルシャ語(ファールシー)
- 通貨:リアル(近年は事実上のドル化が進行)
「国家の核を失わなかった文明 ― イランの国家意識の起点」
まず最初に押さえるべき、極めて重要な前提があります。
中東の多くの国――イラク、シリア、ヨルダン、クウェートなどは、
20世紀に列強によって国境線が引かれ、「国家」として成立しました。
これらの国々では、国家の枠組みが外部から与えられたものです。
一方でイランはまったく異なります。
イランは、
- 何度も外敵に侵略され
- 宗教が変わり
- 王朝が交代し
それでもなお、「国家としての核」だけは失われなかった文明圏です。
この点が、現代イランの強い国家意識を理解する上での出発点になります。
古代:すでに「世界帝国」だった古代イラン

紀元前6世紀、現在のイラン高原を中心に成立したのがアケメネス朝 です。
創始者キュロス2世は、
- 小アジア
- メソポタミア
- エジプト
- 中央アジア
にまたがる、当時の世界最大級の帝国を築きました。
この帝国の特徴は、最大級の帝国を築くことができた理由があります。
それは、
- 宗教・民族に対する寛容
- 州県制による地方統治
- 税制・官僚制の整備
- 法に基づく支配
といった、制度国家としての完成度が非常に高いものでした。
この背景によって、「本来、我々は強大な国家である」という国家意識が無意識のレベルまで残ることになりました。
アケメネス朝の本当のすごさとは何だったのか

アケメネス朝の偉大さは、「領土が広かった」「軍事力が強かった」といった表面的な点にあるのではありません。その本質は、人類史上で初めて、「世界帝国を、世界帝国として安定的に運営する方法」を完成させたことにあります。
アケメネス朝は、エーゲ海からインダス川、中央アジアからエジプトに至るまで、当時知られていた文明世界のほぼすべてを包含する巨大帝国でした。これほど多民族・多宗教・多言語の地域を同時に支配した国家は、それ以前にも以後にもほとんど存在しません。
通常、この規模の帝国は、反乱と弾圧を繰り返し、王の死とともに急速に崩壊します。しかしアケメネス朝は、王朝内部の権力争いを別にすれば、帝国全体が恒常的な内乱状態に陥ることなく維持されました。
これは偶然ではなく、最初から「反乱が起きにくい統治構造」を意図的に設計していたからです。
その最大の特徴が、「征服しても変えない」という統治思想でした。
当時の古代国家において、征服とは、神殿を破壊し、支配者の宗教を強制し、文化を塗り替える行為を意味していました。征服者は恐怖によって支配を維持しようとしたのです。
しかしアケメネス朝は真逆の道を選びました。征服地の宗教、慣習、言語を原則として尊重し、神殿を破壊せず、既存の社会秩序を維持したまま、その上に皇帝権を重ねました。
この姿勢を象徴するのが、キュロス2世によるバビロン捕囚民の解放です。彼は征服者でありながら、「解放者」として記憶されました。
これは博愛主義的な理想論ではありません。宗教や文化を破壊すれば反乱が頻発し、統治コストが爆発的に増大することを、彼らは極めて冷静に理解していたのです。
アケメネス朝は、軍事国家ではなく、徹底した官僚国家でした。
帝国を複数の州(サトラピー)に分割し、各地に総督を派遣しながら、税の定額化、文書行政、会計管理を制度として整備しました。これらは単なる補助的仕組みではなく、帝国を回し続けるための中枢インフラでした。
特に注目すべきなのは、権力の分散です。
行政、軍事、財政、司法を一人の地方長官に集中させることはせず、あえて分離しました。地方総督が軍を直接指揮できないようにし、さらに王直属の監察官を派遣することで、反乱や独立を制度的に抑え込んだのです。
これは、後世の「三権分立」にも通じる発想であり、古代国家としては驚異的に洗練された制度設計でした。
また、アケメネス朝の王は、いわゆる専制君主ではありませんでした。ゾロアスター教的世界観のもとで、王は「秩序(アシャ)を守る責務を負った存在」とされていました。王は絶対的権力者であると同時に、理念によって厳しく縛られた存在でもあったのです。
恣意的な暴力や信仰破壊は、王の正統性を損なう行為とみなされました。
つまり、アケメネス朝の統治は、「王が何でもできる体制」ではなく、「王でさえ守るべき秩序がある体制」だったと言えます。
この統治モデルは、その後の世界帝国に決定的な影響を与えました。
ローマ帝国の属州制度、イスラム帝国の官僚制、さらには中国王朝の分権的地方統治に至るまで、多民族・多宗教を力で同化させない統治発想は、アケメネス朝の実践と深く共鳴しています。
後に王朝が変わった後でもイスラム勢力に征服されるまで、1000年以上はこの制度で帝国が続いたのです。
7世紀:イスラム征服と「ペルシャ文化」の生存
7世紀、アラブ・イスラム勢力によってササン朝というイラン国家が軍事的に滅ぼされ、イラン(ササン朝)はイスラム帝国の一地方として再編成されました。このような場合、多くの文明はこの段階で言語や文化、国家性を失いました。
しかし、イラン(ササン朝)は違いました。
イラン社会には、言語が「生活」に根付いており、国家運営を担う人的資本が残りました。
その当時からイランで用いられていたペルシャ語は、
・公的・宗教:中世ペルシャ語(パフラヴィー語)
・日常会話 :口語的ペルシャ語
という二層構造でもありました。
そのため、アラビア語に行政を奪われても、民衆の日常言語は変化がありませんでした。
また、 アラブ人支配層は少数だったため、征服後も
- 人口の大多数=イラン人
- 支配層=アラブ人(少数)
という状況であったため、言語が変わることはありませんでした。
イスラムのイスラムの聖典言語はアラビア語ではあるものの、日常言語の統一は求めませんでした。
それではなぜ、このような寛容な統治だったのでしょうか?
結論から述べると、イスラム帝国はイラン人官僚なしでは統治が成り立たなかったからです。
これは能力や偶然の問題ではなく、イラン世界が長い時間をかけて培ってきた「国家運営の経験」が決定的に重要だったためです。
イランは「国家運営のプロ集団」だった
イラン世界は、アケメネス朝からササン朝に至るまで、千年以上にわたって官僚国家として存続してきた文明圏でした。
その中で、税制、法制度、文書行政、会計管理といった「国家を回すための実務ノウハウ」が体系的に蓄積されていました。
一方、7世紀当時のアラブ社会は、基本的に部族社会であり、
国家レベルでの官僚制度を持っていませんでした。
イスラムという宗教が誕生したことで、初めて「部族を超える統合原理」は生まれましたが、それを具体的な行政制度に落とし込む経験は存在していなかったのです。
そのため、広大な領域を統治する必要に迫られたイスラム帝国にとって、
すでに高度な官僚国家運営の実績を持つイラン人官僚の存在は不可欠でした。
結果として、イスラム帝国の統治機構の中には、自然とイラン的な行政文化が組み込まれていくことになります。
踏襲されたササン朝の宗教と行政
①:宗教・民族に対する寛容
イラン世界、とくにササン朝を統治するにあたって、
征服地の宗教・慣習・言語を原則として尊重するという特徴がありました。
具体的には、
- 神殿の破壊や強制改宗を行わない
- 征服された人々の信仰や生活慣習を維持させる
- 捕囚民の帰還や信仰再建を認める(例:バビロン捕囚におけるユダヤ人の解放)
といった政策が取られていました。
なぜ宗教の寛容性が可能だったのか
第一の理由は、帝国の成立過程が多民族統合型だったことです。
アケメネス朝は、一つの民族国家が徐々に拡張したのではなく、
短期間で異なる文化圏を連続的に併合することで成立しました。
もし同化や改宗を強制すれば、反乱が頻発し、
統治コストが爆発的に増大することは明らかでした。
そのため、支配を安定させるためには、宗教や文化を尊重する方が合理的だったのです。
第二の理由は、ゾロアスター教的世界観の影響です。
アケメネス朝の支配層には、善と悪、秩序と混乱という二元論を基礎とする
ゾロアスター教的な思想が存在していました。
この世界観では、王は「秩序(アシャ)」を守る存在であり、
他者の信仰を力で破壊することは、むしろ秩序そのものを壊す行為だと考えられていました。
そのため、異なる信仰を認めることこそが、秩序にかなう統治だという認識が広く共有されていたのです。
第三の理由は、既存の宗教権威を利用した方が統治が安定するという実利的判断です。
神官団や神殿は、単なる宗教施設ではなく、すでに地域社会をまとめる統治装置として機能していました。
王権はそれらを破壊するのではなく、その上に「皇帝権」を重ねることで、
より少ない摩擦で広大な領域を支配することが可能になったのです。
②:州県制(サトラップ制)による地方統治
ササン朝のもう一つの大きな特徴が、**州県制(サトラップ制)**でした。
帝国全体を複数の州(サトラピー)に分割し、各州には総督(サトラップ)を派遣しました。さらに、軍事・財政・司法の権限を一人に集中させず、それぞれを分離配置する制度が採用されました。
なぜこの制度が必要だったのか
第一に、領土があまりにも広大だったからです。
ササン朝の版図は、エーゲ海からインダス川にまで及び、
情報伝達には数週間から数か月を要しました。
この規模では、中央からの直接統治は物理的に不可能であり、
地方に大きな裁量を与えるしかありませんでした。
第二に、過去の失敗から学んだという点があります。
直前の覇権国家である新アッシリア帝国は、強制移住、恐怖政治、極端な中央集権によって支配を行っていました。
しかし、その体制は王権が崩れた瞬間に一気に瓦解しました。
この教訓から、「地方に裁量を与え、中央は監督する」という方式を選択したのです。
第三に、権力集中を防ぐ安全装置としての制度設計です。
サトラップには軍事権を持たせない場合が多く、
- 行政を担う総督
- 軍を指揮する司令官
- 王直属の監察官
を分立させました。
これにより、地方総督が反乱や独立を起こすリスクを制度的に抑えることができました。
11世紀~14世紀のイランについて
11〜14世紀のイランでは、外来の支配者による「征服」は繰り返されましたが、社会や文化が根本的に置き換わることはありませんでした。
11〜13世紀の セルジューク朝 期には、支配層はトルコ系で軍事力も遊牧騎馬軍団でしたが、国家運営に必要な制度や人材を自前で持っていなかったため、アケメネス朝・ササン朝以来の伝統をもつイラン人官僚制に全面的に依存しました。行政言語はペルシャ語のままで、人口構成も変わらなかったため、結果として起きたのは「イランのトルコ化」ではなく「支配層がトルコによるもの」でした。
13世紀のモンゴル侵攻では都市破壊など壊滅的被害が生じましたが、成立した イルハン国 も長期支配のために税制・都市管理を必要とし、再びイラン人官僚に依存します。さらにガザン・ハンのイスラム改宗により国家はイスラム世界へ組み込まれ、行政・文化の中心がペルシャ語圏であった以上、イラン化は不可逆となりました。結果として、征服者は国家としてイラン文明に吸収されていったのです。
宗教が国家そのものになった転換点
16世紀、イラン史における最大の分岐点が訪れます。
それが サファヴィー朝 の成立です。
サファヴィー朝は、
- 十二イマーム派シーア派を国教に指定
- 周囲のスンニ派国家(オスマン帝国など)と明確に一線を画す
という決断を下しました。
これにより、
- 宗教=国家アイデンティティ
- 宗教指導者(ウラマー)が政治正統性を担う
という構造が誕生します。
宗教はもはや個人の信仰ではなく、国家を正当化するものになりました。この構造は、500年後のイスラム共和国にも直結しています。
なぜ国教がスンナ派になったのか
なぜ、このような構造が生まれたのでしょうか。最大の理由は、16世紀直前のイランが「国家を正当化する軸」を失っていたことにあります。モンゴル支配以降、イランでは王朝が頻繁に交代し、「誰が正統な支配者なのか」を一貫して説明できなくなっていました。古代にはゾロアスター教が王権を支え、イスラム初期にはカリフの権威がありましたが、この時代のイランには、それに代わる普遍的な正統性が存在しなかったのです。
サファヴィー朝は、この空白を宗教で埋めました。ただし、スンニ派を採用する選択肢は現実的ではありませんでした。もしスンニ派国家のままであれば、イランは周囲のスンニ派大国と宗教的に区別がつかず、「なぜイランは独立した国家なのか」を説明できなくなります。シーア派は、イランを周辺世界から切り分け、独自の国家として位置づけるための、ほぼ唯一の手段でした。
さらに、十二イマーム派シーア派の教義構造そのものが、国家建設と相性が良かった点も重要です。正統な指導者であるイマームは不在とされ、その間、宗教的解釈を担うウラマーが必要とされます。サファヴィー朝はこの構造を利用し、王権を「シーア派国家の守護者」と位置づけ、ウラマー(「神の掟をどう解釈するか」を担う専門家として、知識によって権威を持つ人々)を宗教的正統性の担い手としました。こうして、宗教が王を制約しつつ、同時に王を正当化するという関係が成立します。
この発想は、イランにとって突飛なものではありませんでした。ササン朝以来、イランでは宗教が国家秩序を支えるという考え方が根付いており、王は秩序を守る存在とされてきました。サファヴィー朝の選択は、イスラムという新しい宗教を用いて、この古い国家観を復活させたものだったのです。
そのため、シーア派の国教化は穏健な改革ではなく、強制的な形で進められました。宗派を統一することは短期的には大きな摩擦を生みましたが、部族や地域が分裂していた当時のイランを迅速に統合するには、最も効果的な方法でもありました。宗教は個人の内面に留まるものではなく、国家をまとめるための共通言語となったのです。
こうして成立した「宗教=国家アイデンティティ」という構造は、その後も形を変えながら存続します。宗教指導者が政治正統性を担い、国家権力を監督するという枠組みは、王制の時代を越え、最終的にはイスラム共和国にまで引き継がれました。つまり16世紀のサファヴィー朝は、単に一つの王朝を築いたのではなく、宗教が国家そのものになるイラン独自の政治構造を決定づけた転換点だったのです。
終わりに
今回は、16世紀までの古代からのイランの歴史について触れましたが、次回は石油を含めたイギリスやアメリカとのかかわりについて触れていきたいと思います。
現在のイランは、しばしば「強硬」「対話が難しい国家」として語られます。
しかしその姿は、突発的に生まれたものではありません。本記事で見てきたように、イランは古代帝国以来、侵略や宗教転換、王朝交代を何度も経験しながらも、「国家の核」を失わずに生き延びてきた稀有な文明国家です。制度や言語、宗教のかたちは変わっても、国家を正当化する原理を内側から作り直してきました。
16世紀に宗教を国家そのものへと組み込んだ選択も、その延長線上にあります。イランの「屈しなさ」とは、変化を拒むことではなく、歴史を通じて自らを再定義し続けてきた結果なのです。今のイランを理解するためには、目の前の政治だけでなく、この長い時間軸に目を向ける必要があります。
